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メールマガジン「法円坂」No.254 (2022/6/16)(独立行政法人 国立病院機構 大阪医療センター)
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今年の梅雨入りは例年より遅れていますが、関東では雨ならぬ雹が降ったこと
がニュースとなり異常気象を感じさせる今日この頃です。鬱陶しい梅雨ですが、
雨上がりの樹木は生き生きとしています。明るく、元気に、過ごしたいと思いま
す。
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メールマガジン「法円坂」No.254 (2022/6/16)
(独立行政法人 国立病院機構 大阪医療センター)
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今月号の目次
・院 長 松村 泰志
・呼吸器外科領域のトピック
・読書から学ぶ神経心理学
・看 護 の こ こ ろ
・研 修 医 日 記
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院 長 松村 泰志 日本の歴史を学んで(その2)
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先月は、百田直樹さん著作の「日本国紀」を読んで、歴史のパターンを見つけ
出す試みをしたのですが、上巻の江戸末期で終わってしまいました。今月は、下
巻の明治維新からをご紹介したいと思います。
振り返りますと、1853年のペリー来航から1951年のサンフランシスコ講和条約
締結までの間、日本は国際社会の中で列強と伍することを目指し、それが故に大
変な苦難を受けた時代でした。19世紀、欧米諸国は、産業革命によって手にした
強力な軍事力で、自国の利益のために他国を植民地化していきました。江戸末期
の人々は、その脅威を理解しており、日本を守るための方策を模索していました。
第二次長州征伐(1866年6月)で、数では圧倒していた幕府軍が長州に敗れ、徳
川慶喜は大政奉還をし、鳥羽・伏見の戦いで朝敵となり、戊辰戦争となりました。
しかし、徹底抗戦はせず、江戸城を無血開城(1868年3月)としたのは、内戦に
よる消耗により、列強の侵攻を受ける危険性を考えたからでした。明治維新の頃
は優れた人物が多数現れましたが、結局、殆どの人が殺されてしまいました。そ
れにもかかわらず、大革命が短期間で成し遂げられたのは、これを担った人達に、
共通する目標があったからだと思います。世界的に見ても稀有のことと思います。
明治政府は5箇条の御誓文を発表し、廃藩置県、郵便、鉄道の敷設、銀行、富岡
製糸場、鉱山の開発、学制の制定、身分制度の改変、兵役義務化による軍隊の整
備、地租改革、太陽暦の採用と、10年の間に大きな改革を次々と実行していきま
した。しかし、士族の不満は募り、1877年西南戦争が勃発し、これが鎮圧された
ことで武士の時代が終わりました。第二次長州征伐からわずか11年の変革でした。
1889年大日本帝国憲法が公布され、1890年には衆議院議員総選挙が行われ、内
閣制度が確立し、民法、刑法、商法などの法律が整備され、立憲国家となりまし
た。これにより体制としては欧米諸国に追いつきました。隣国の朝鮮で1894年東
学党の乱が起こり、これが引き金となって日清戦争となり、これに日本が勝利し、
清から多額の賠償金、台湾の割譲を受けました。その後、清は列強諸国により蚕
食されていきます。日本にとってはロシアが脅威でした。1902年イギリスと日英
同盟を結んで備えました。清で起こった義和団の乱をきっかけにロシアが圧力を
かけてきたため、日本はこれに抗し1904年日露戦争となりました。日本は軍事力
では劣っていましたが、日本海海戦で勝利して戦争を終結させ、朝鮮半島におけ
る優越権、旅順、大連の租借権を勝ち取り、極東における支配力を強めました。
1912年清帝国が終焉し、中華民国が誕生しました。1914年ドイツ、オーストリア
・ハンガリー、イタリアの三国同盟とロシア、フランス、イギリスの三国協商の
戦いに各国が参戦し、第一次世界大戦となりました。日英同盟により日本もドイ
ツと戦いました。1918年ドイツ側の敗戦で終結し、1919年国際連盟が設立されま
した。一方ロシアでは、1917年ロシア革命が起こり、レーニンが内乱を制圧し、
1920年ソビエト社会主義共和国連邦を樹立しました。
日露戦争以後、日本は満洲に進出し、南満州鉄道の利権を得るなど勢力を拡大
しましたが、アメリカは、これを由としませんでした。1921年ワシントン会議で
は、海軍の軍縮、中国の更なる侵略を控える九カ国条約が締結され、日英同盟を
解消し四ヵ国条約とするなど、日本を抑え込む施策を、全権大使の幣原喜重郎は
あっさりと受け入れてしまいました。1929年世界恐慌となり、日本は金融緩和、
積極的歳出拡大で不況から脱出しましたが、日本の安い製品はソーシャル・ダン
ピングと欧米から非難を受けました。欧米では自国と植民地を囲い込み、他国の
製品に高い関税を果すブロック経済政策をとり、持たざる国であるドイツ、イタ
リアが経済的に追い込まれました。日本は大東亜共栄圏を構想し、満洲の利権を
守ろうとしますが、中国から散発的な反乱を受けました。日本政府は中華民国へ
の協調路線を取ろうとしましたが、関東軍が反発し、満州事変を起こして1932年
満州国を建国しました。同年海軍の急進派青年将校によるテロ事件で犬養毅首相
が暗殺される五・十五事件が起こりました。満州国の建国は九カ国条約違反とさ
れたことに反発し、1933年日本は国際連盟を脱退しました。1936年陸軍の青年将
校がクーデターである二・二六事件を起こしました。昭和天皇の指示で鎮圧され
ましたが、軍が全体主義的政策を推進する異常な事態となっていきました。中国
では、日本に対する散発的な暴発を日本軍が制圧することが繰り返される支那事
変となりました。このころドイツではヒトラーが政権をとり、オーストリアを併
合し、更にチェコスロバキアのスデーデン地方の併合を主張しました。これをフ
ランス・イギリスは融和政策をとり受け入れましたが、ドイツはチェコスロバキ
アを制圧し、更にポーランドに侵攻しました。ポーランドと相互援助条約を結ん
でいたイギリスとフランスはドイツに宣戦布告し第二次世界大戦が始まりました。
ドイツの勢いは凄まじく、ポーランドを制圧し、フランスに攻め込みました。こ
れを目にしたイタリアがイギリス、フランスに宣戦布告し参戦しました。日本の
軍部はこの動きを好感し、1940年日独伊三国同盟を締結しました。これによりア
メリカとの関係が決定的に悪くなり、アメリカは対日経済制裁を宣告し、石油を
禁輸しました。当時日本は8割の石油をアメリカから輸入していました。1941年
11月27日アメリカから日本が仏印と中国から全面撤退することを要求するハル・
ノートが突きつけられ、12月12日日本はアメリカに宣戦布告しハワイの真珠湾を
攻撃し、大東亜戦争が始まりました。日本はイギリスのシンガポール要塞を陥落
し、インドネシア油田を奪うことに成功しましたが、石油を日本に運送する船が
ことごとく撃沈される状況でした。ミッドウェイ海戦で敗れ、ガダルカナル島の
戦いでも敗れました。この時の日本の戦い方は拙劣なもので、しかも陸軍と海軍
の仲が悪い状態でした。一方、アメリカは空母を増やすなど、着実に兵力を増強
していきました。1944年サイパン、1945年沖縄が奪われ、日本の各都市が空襲で
焼かれていき、広島、長崎に原爆が投下され、8月14日ポツダム宣言を受諾し、
大東亜戦争は日本の敗戦で終結しました。
敗戦後日本では、マッカーサーを最高司令官とするGHQの指令・勧告によって
日本政府が政治を行う体制となりました。日本国憲法が全面的に改訂され、第9
条で戦争放棄が明文化されました。GHQは日本人に戦争についての罪悪感を植え
付けるための宣伝計画を遂行し、東京裁判、教職追放、公職追放をしました。秘
密警察の廃止、労働組合の結成奨励、婦人解放、教育の自由主義化、経済の民主
化、このために財閥解体、農地改革を断行し、華族制度を廃止しました。
世界では、第二次世界大戦の終結後、自由主義陣営と共産主義陣営との間で冷
戦状態となりました。1949年中国共産党が勝利し、蒋介石は台湾に逃れ、中華民
国を樹立しました。朝鮮半島では北朝鮮をソ連が、韓国をアメリカが支援する形
で2つの国ができました。1950年北朝鮮はソ連の支援を受け韓国に侵攻し朝鮮戦
争が勃発しました。これに対しアメリカ軍が朝鮮半島に出撃し、これに日本が物
資を供給し、この特需により経済が復興しました。冷戦が深刻化する中、アメリ
カは日本を独立させて自由主義陣営に引き込むことを考えました。1951年サンフ
ランシスコ講和条約が締結され、日本は独立を勝ち得ることとなりました。同時
に日米安全保障条約が締結されますが、日本には不利な条約でした。岸伸介首相
はアメリカと交渉し1960年安全保障条約の改定に成功しました。これにより、日
本が有事の際にはアメリカは日本を防衛する義務を負うことになりました。1960
年池田勇人が首相となり、経済政策に力を注ぎ、1964年日本でオリンピックが開
催され、1968年にはGNPが世界で第二位の経済大国に復興しました。その後起こ
ったことは、私の記憶の中にもあります。日本は経済成長を続けましたが1990年
バブルが崩壊し、経済成長は止まりました。世界では冷戦が終結し、1991年ソ連
が崩壊しました。中国、台湾、韓国、その他のアジア諸国が経済成長を遂げ、日
本の相対的立場は下がってきています。
サンフランシスコ講和条約から約70年が経過しましたが、この間、日本は平和
でした。私は平和であることが当たり前のように思っていましたが、日本の歴史
を振り返ると、ペリー来航以後、70年間も平和が続いた時期はありませんでした。
自分が平和な時期に日本に生まれた幸運に感謝したいと思います。しかし、今年
になって、ロシアがウクライナに侵攻し、中国が台湾を力ずくでの併合を、北朝
鮮は核ミサイルの開発を目論んでいる等、不穏な空気が流れています。ソ連の崩
壊で冷戦は終結したと思っていましたが、共産主義が覇権主義に変わっただけで、
冷戦は終わっていなかったことを思い知らされました。日本は地理的に、ロシア、
中国、台湾、北朝鮮、韓国、そしてアメリカとの関係の中で、自国の平和、発展
を模索しなければなりません。明治維新を成し遂げ、富国強兵策で列強に追いつ
き、日清、日露戦争までの日本は素晴らしかったと思います。日本を守ろうとす
る強い意志が貫徹していました。しかし、強くなったがゆえに列強から抑え込ま
れ、無謀な大東亜戦争に自ら突入していき、拙劣な戦略で大敗しました。この頃
の日本は、現実を冷静に分析せず、直情的な姿勢で破滅の道に進みました。敗戦
後の日本は、急速に経済復興を遂げ、明治の頃を彷彿させます。さて、今の日本
はどうなのでしょうか。難しい局面を迎えつつあります。今こそ、現状を良く分
析し、冷静に判断する、正見、正思が必要です。
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呼吸器外科領域のトピック
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呼吸器外科科長
髙見 康二
呼吸器外科科長の髙見康二です。いつも地域の先生方には大変お世話になって
おります。この場を借りて御礼申し上げます。
さて、呼吸器外科領域の最近のトピックを紹介させていただきます。肺癌の標
準手術は長年のあいだ肺葉切除とされてきました。一方、小型肺癌の中には、よ
り切除範囲が小さくて呼吸機能を温存できる区域切除で治癒する肺癌があること
も事実で、実臨床では患者さんに十分説明の上で区域切除が実施されてきました。
しかし、肺葉切除と区域切除を比較した無作為化試験は行われていませんでした。
そのような状況の中で、日本の大規模臨床試験(JCOC0802/WJOG4607L)で、2cm
以下の小型末梢非小細胞肺癌における区域切除と肺葉切除を比較した無作為化非
劣性比較試験が実施され、昨年その結果が示されました。この試験には約1100例
が登録され、5年全生存率では区域切除群94.3%、肺葉切除群91.1%で、区域切除
群の非劣性と優越性が確認されました。呼吸機能は有意差を持って肺葉切除より
も区域切除では温存されていましたが、試験で前もって予想したほど両群に差は
ありませんでした。全再発割合は区域切除群12.1%、肺葉切除群7.9%と区域切除
群で有意に高く、中でも局所再発率が区域切除群に高いことが示されました。
すなわち2cm以下の小型末梢非小細胞肺癌に対して、区域切除では局所再発が
少し多いけれども、全生存では肺葉切除と同等かそれ以上で、呼吸機能の温存は
予想ほどではなかったがやや優れている、と解釈できます。実臨床ではこの結果
を受けて、2cm以下の小型末梢非小細胞肺癌に対して区域切除を標準手術のひと
つとして考慮できますが、局所再発を極力ゼロにする工夫と努力が求められます。
当院では従来から、2cm以下の小型末梢非小細胞肺癌に対し区域切除に積極的
に取り組んでおり、充実部分とすりガラス部分の割合と腫瘍径の2つのパラメー
ターを組み合わせてその適応を判断しています。局所再発を防ぐ方策として、腫
瘍から安全な距離をとって切除ラインを設定するのはもちろんですが、肺切除断
端に癌細胞が及んでいないかを術中迅速細胞診で判定し、リンパ節転移の有無も
術中迅速組織診で確認しています。これらが陽性の場合には区域切除から肺葉切
除に切り替え、区域切除例での局所再発をなくすよう細やかな配慮をし、良好な
治療成績を残しています。胸部レントゲンやCTで肺に結節を発見されましたら、
どうぞ当院へご紹介ください。
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読書から学ぶ神経心理学
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脳卒中内科医長
山本 司郎
職業柄、小説を読んでいて登場人物に神経症状が出てくると深く追求したくな
るのが神経内科医。今日はそんな読書の中で、気になった神経症状が出てくる作
品や高次脳機能、神経心理の学習につながる作品を紹介します。
(1)「宇喜多の捨て嫁」木下昌輝
実は作者の木下昌輝氏は、小学生のときのクラスメイト。子供の頃は誰しも、
宇宙飛行士、プロ野球選手などあこがれの職業があるのですが、成長するにつれ
て現実的な選択をすることがほとんど。そんな中、夢をつらぬき歴史小説家にな
ったのが彼で、デビュー作が「宇喜多の捨て嫁」。戦国武将、宇喜多直家にまつ
わる物語です。
気になったのは直家がみせる無想の抜刀術。
本文からの抜粋。「直家の両腕が動いている。明らかに本人の意思とは無関係
に。まるで別の生き物が宿っているかのように左手が鯉口を切り、右手が柄を握
り、抜刀しようとしていた。直家の顔と意識はまだ幼子の声に向いているという
のにだ。(中略)目を下へと移す。完全に抜刀された直家の太刀があった。だが、
白刃は虚空で静止している。直家の太刀を持つ右手首を何者かが摑んでいた。一
体、誰が。宇喜多直家自身の左手だった。凶器を持つ己の右手首を握っていた。
自身の斬撃を自身で制止している」
このような動作をみてまず疑いたくなるのは、脳梁の障害によって生じる「脳
梁離断症候群」です。脳梁は左右の大脳をつなぐ部分で、そこが障害されると、
大脳半球間の伝達が行えなくなります。人の意志は、優位半球である左大脳が起
点になるので、左手を動かそうと考えると、それが左大脳から脳梁を介して、右
大脳の運動野に伝わり、そこから運動神経が下に進んで延髄で交叉し、脊髄を経
て左手に命令が伝わります。したがって、脳梁が障害されると、意志が右大脳へ
伝達されなくなるので、左手をイメージ通りに動かせなくなります。左手は麻痺
しているのではなく、意志の統制がとれていない状態なので、無目的あるいは反
射的に動くことがあり、このような症状を「エイリアンハンド(alien hand sign)」
と呼びます。「エイリアンハンド」に付随して、「拮抗性失行」という症状が出
ることがあり、これは右手の随意運動に拮抗して、無意識的に左手が右手の動き
を阻害する症状です。直家の右手は刀で相手を斬ろうとしているのに左手はそれ
を阻止しようとしており、その動きは「拮抗性失行」のようにみえます。
しかし、刀を操り人を斬ってしまう行動は直家の意志を反映したものではあり
ません。ある時は意志に反して自分の母親さえも斬ってしまいます。直家の右手
で刀を操る動作は随意的なものではなく、むしろ右手を阻止しようとする左手の
動きの方が随意的のようです。そうするとこれは、「エイリアンハンド」ではな
く、「道具の強迫的使用」という症状を考えなければなりません。「道具の強迫
的使用」とは、学習で得られた行動パターンが意志とは関係なく出現してしまう
症状であり、脳梁に近い帯状回や補足運動野が障害されたとき、稀にみられます。
例えば、歯ブラシを手にとると意思に関係なく歯磨きの動作が始まったり、ある
いは櫛を手にとると意思に関係なく髪を櫛でとかし始めたりします。このとき、
勝手に動作を行う右手に対して、左手は随意的に止めようとします。どうやら直
家がみせる無想の抜刀術は、「道具の強迫的使用」と言えそうです。
このような考察を作者に伝えたところ、大変喜んでくれました。彼によると、
やはり少し聞きかじった知識があったらしく、それを参考にして殺陣のシーンを
描いたとのこと。あながち間違いではなかったようです。
(2)「さまよえる脳髄」逢坂剛
「脳梁離断症候群」を扱った小説で真っ先に思い浮かぶのが、この作品です。
初めて読んだのは大学生のとき。しかし、そのときは内容を完全に理解できては
いませんでした。完全に理解できるようになったのは、神経内科医になってから。
脳梁離断が関連した二重人格がテーマですが、作品の中で描かれる高次脳機能を
評価するための詳細な神経診察が素晴らしく、さらにミルグラム実験をより発展
させた驚くべき手法で主人公の深層心理に迫り、最後はアミタールテストで隠れ
た人格をあぶりだすという科学ミステリーです。
本文からの抜粋。「タキストスコープを用いれば、映像の露出時間を正確にコ
ントロールすることができる。藍子自身は経験がないが、丸岡が試みようとして
いるのは半側視野瞬間提示法と呼ばれる検査だった。左右の視野の一方に瞬間的
に画像を提示し、それぞれの視野機能をチェックするのである。大脳の左右両半
球は、対側性と呼ばれる原理によって、互いに体の反対側の筋肉をコントロール
している。つまり左脳は右手、右足など体の右半身を統御し、右脳はその逆を統
御する。ただし、視覚の場合は別で、脳は目そのものではなく、左右の<視野>
を統御している。両方の目で一点を凝視するとき、左脳には凝視点の右側(右視
野)の情報が投射され、右脳には左側(左視野)の情報が投射される。この検査
では、刺激の入力を一方の視野に限定するため、提示時間を100ないし150ミリ秒
にセットする。もし200ミリ秒以上提示すると、目が凝視点から動く余裕を与え、
視覚情報がもう一方の視野にはいってしまう。通常はどちらの側の視野にはいっ
た情報も、大脳交連すなわち脳梁や前交連を介して反対側の半球に伝達される。
しかしもし脳梁に異常が発生すると、この情報伝達が正しく行われず、各半球が
視覚情報に関して孤立する可能性を生じる・・・」
まるで神経内科の教科書を読んでいるようですね。しかし、専門外の方でも神
経解剖の本を片手にこの小説を読んでいくと、脳機能について相当理解が深まり、
この小説がさらに面白く感じられると思います。それにしても、作者の知識の深
さとそれをミステリーに仕上げる素晴らしい才能には驚かされます。
(3)「信長 空白の百三十日」木下昌輝
木下昌輝氏の作品からもう一点。実は、彼から織田信長の人格障害に迫りたい
ので、意見が欲しいと相談されました。しかし、この分野は私の専門外なので、
同期で某病院の精神科部長を務める友人を紹介することにしました。
友人の意見が引用された箇所を一部抜粋します。「実は、社会的に成功する人
の中に、病的ともいえるこだわりから成功を収めていて、活発でとりまきは多い
ように見えるが、実は人の気持ちを理解することができず、周囲が大変な苦労を
している、というのはよくあります。最初にメールであげられていた「強迫観念」
(筆者注:完璧主義すぎる信長の性格)というのは、精神科的には、強迫性障害
や強迫性パーソナリティ障害の強迫よりも、この自閉症スペクトラム症の同一性
への固執に近いかと思われます。パーソナリティ障害についてですが、人口の数
パーセント~十パーセントにも当てはまるかもしれない性格特性に近いパーソナ
リティ障害の診断基準に信長が当てはまるのは当たり前で、様々なパーソナリテ
ィ障害が当てはまる可能性が高いと思われます。ただ逆に信長ほど個性が強いと、
その個性にぴったり当てはまるパーソナリティ障害はなく、様々なパーソナリテ
ィ障害の特性を併せ持っている可能性の方が高いかと思われます・・・」
この作品は小説ではなく、織田信長の家来、太田牛一が記した「信長公記」と
いう資料から、作者が信長のパーソナリティに迫った新書です。読者自身も信長
のパーソナリティをああではないか、こうではないかと推察したくなりますし、
自分自身や身近な人に当てはめてみたくもなります。第一章、第二章は「信長公
記」の解説が続くので、歴史が苦手な方は、第三章から読まれてもよいかもしれ
ません。
以上、3つの作品を紹介しましたが、いかがでしたでしょうか?少しでも興味
をもたれた方は、神経心理学への素質あり。今すぐ書店へ!
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看 護 の こ こ ろ
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西9階病棟 副看護師長
田中 正隼
今年も梅雨の季節が始まろうとしています。梅雨寒の日もあれば暑気日もあり
寒暖差の激しい時期でもあります。また新型コロナウイルス感染症も未だ終息せ
ず、感染対策にも気を使われていることと思います。くれぐれもお体を大切にお
過ごし下さい。
私はこれまで小児科・整形外科の混合病棟や循環器内科・心臓血管外科の病棟
で勤務し、今年の4月から副看護師長に昇任して西9階病棟に配属となりました。
西9階病棟は消化器外科と泌尿器科を主としており、今まで経験したことのあま
りない分野ではありますが、新しい知識や経験を積み、自分自身の看護力の向上
につなげることが出来ると考え、日々期待に胸を膨らませながら勤務しています。
今回は循環器病棟に異動して間もない時に担当させていだいた患者さんで心に残
っていることがあり、紹介させていただければと思います。
患者さんのAさんは拡張型心筋症に対して強心薬治療をされていました。病状
は末期の状態で医療者に対して遠慮をされる方であり、ご自身の本音をあまり言
われない方でした。どうすればAさんの思いや希望に沿った看護ができるのかを
日々医師や看護師でカンファレンスを行い、本人のACP(アドバンスケアプラン
ニング)を確認できるよう病状説明の機会を設け、Aさんや家族の思い・希望を
確認する機会を積極的に設けました。Aさんは「やっぱり家に帰りたい。でも家
族に迷惑をかけるのはわかっているの。本当は甘えたほうがいいのにね。」と言
われ、「今まで頑張ってきたので、甘えて良いんですよ。」と医師や看護師から
もお伝えし、Aさんの心の中の思いを表出できた場面でした。その後Aさんは促し
ながらではありますが、以前よりも思いを表出される機会が増えることができま
した。その後在宅での強心薬の間欠投与を行うため、在宅医や訪問看護と連携を
行い、入院で一定程度症状が軽減できれば1~3週間程度ご自宅で過ごす生活を複
数回実施することができました。
最終的にAさんは病院で最期を迎えられましたが、ご家族から「本当に良く頑
張った。家に帰れたことを喜んでいて本当に良かったです。」とお言葉をいただ
き、改めて患者さんの思いや希望を確認するために、患者さんに応じたACPの実
施や医療チームのカンファレンスの機会を設けることの重要性を実感することが
できました。また患者さんの思いや希望に沿った関わりを看護師だけでなく、医
師や訪問看護師等の多職種と連携することの重要性を感じることができました。
看護は医師・看護師やコメディカルだけで行うのではなく、その中心には患者
さんと家族がいます。患者さんやその家族の目標や希望を踏まえた上で出来る看
護は何かを考え、多職種と連携しながら目標や希望を少しでも実現するために看
護師として出来る事をこれからも日々考えていきたいと思います。
副看護師長となり、これからは今までの経験を病棟スタッフに還元し、自分自
身の看護の大切にしていることを伝えていきたいと考えています。
ホームページ→https://osaka.hosp.go.jp/kango/index.html
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研 修 医 日 記
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初期研修医 2年
上村 廉
大阪医療センター初期研修医の上村廉と申します。あまり日記を書いたことが
なく、何を書いたらいいのかわからないので、1年近く大阪医療センターで研修
した中で感じたことを書いていこうと思います。
まず、ローテートについてですが、当院は選択期間が4か月で他病院に比べる
と短めなのが特徴です。その代わり、必修でほぼすべての内科を2か月ずつ回る
機会があり、他にも外科や三次救急、麻酔科など幅広い科に触れる機会がありま
す。私自身は1年目の4月時点で将来進む診療科がほぼ決まっていない状態でした
ので、多くの診療科をしっかり回り、そのうえで自分の進みたい診療科を考える
ことができるこのシステムで研修できてよかったと思っています。
次に当直についてですが、当直は時間外の先生1人と研修医2人を中心に行って
います。特に最初の診察や検査オーダーについては研修医がやらせてもらえるこ
とが多いです。初期対応については時間外の先生に相談した際にしっかりしたフ
ィードバックを得られるので、毎回の当直で得られるものが多くいい環境でやら
せてもらっているなと思っています。
大阪医療センターは他院と比べて初期研修医の人数が比較的多いほうだと思い
ますが、個人的にはちょうどいいくらいの人数だと感じています。また、広い研
修医ルームもあるため仕事が終わった後とかにゆっくり話したりできるのもいい
ところではないかと思っています。マッチングなどで大阪医療センターを少しで
も考えている方は実際に見学に来て雰囲気などを実際に感じていただけたらと思
います。研修医一同お待ちしております。
臨床研修のホームページ→
https://osaka.hosp.go.jp/kyujin/syokikensyu/nikki/index.html
************************************************************************
総編集長:病院長 松村 泰志
編 集 長:副院長 三田英治 平尾素宏
看護部長 西本京子
編 集:池永祐子
発 行:独立行政法人 国立病院機構 大阪医療センター院長室
(〒540-0006 大阪市中央区法円坂2-1-14)
************************************************************************
今年度も3か月が経とうとしています。新採用の方や人事異動で新しい生活が
始まった方々少しは環境になれたでしょうか?「ケセラセラ」~なるようになる
さ~。肩の力を少し抜いて、大きい深呼吸をして前に進みましょう!
408-osaka@mail.hosp.go.jp
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